学生反抗記ネオ

元京大院生の諸行無常。

「自由の学風」と管理強化

 「自由の学風」を標榜する京大で管理強化が進んでいる。管理強化と一言で言ってもイメージが付きにくいので具体例を挙げるとすると,まず一つにはタテカン規制の問題がある。これは巷でもよく話題にされるが,道路に面した石垣に立てかけるような形で設置されてきた立て看板が,2018年5月に京都市の景観条例を根拠として大学がそれを認めない方針を示し,発見次第強制的に撤去するようになった問題である。道路に面するとはいえ,京大の敷地内にぎりぎり収まるように設置されていたため,大学が主体となって撤去しているのだ。したがって,タテカンは道路の通行を妨害している工作物ではない。しかし,学生は大学による撤去を阻止するため,大学と公道の境界線より公道側にタテカンを設置する方法を編み出した。これは,石垣に固定させることができないため,たいていは自立式のものとなっている。公道上に設置すると大学は手を出すことができないため京都市が対応することになるのだ。そのため,大学側は自立式タテカンを発見次第,京都市に通報して道路の通行を妨害する工作物として撤去してもらうよう対応している。この場合,役人の事であるから土日祝日の間は自立式タテカンは生き延びることができるのだ。例外として,京都市ラソンのときなどは京都市により撤去されることがある。タテカン以外の管理強化の例としては,集会規程を挙げることができる。集会規程は戦後に作られた京大のルールで,集会を開催するときは事前に総長に届け出をして許可を得なければならないとするものである。この規定は従来の立て看板規程とともに長らく形骸化しており,学生が開く集まりを何ら拘束するものではなかった。2018年5月のタテカン規制を受けて,同年6月には「タテカンフェス」なる集会が昼休みに京大の総人広場で開催された。この集会ではタテカンのライブペインティングをはじめ,そうめんが振舞われるなどかなりの盛り上がりを見せ,一部教員も学生に交じって参加したりと大きな反響を得た。しかし,翌年に開かれた「第2回タテカンフェス」では,集会規程による解散命令を標示したプラカードをもつ職員が多数詰めかけ,幾多の恫喝とビデオ撮影を行いながら学生の活動をけん制したのである。学生の自主的な集まりに大学が介入してくるという前代未聞の事態だったが,これまた新聞で取り上げられるなど大きな反響と多数の学生による参加をもって無事に自主解散することができたのである。真新しいプラカードが燦々とふりそそぐ太陽の光に照らされ,管理強化の一側面を印象付けた出来事として記憶に新しい。このほかにも,学生の自主的な催しであるNFにおいて飲酒規制を求めるなど,さまざまな場面において学生の活動に大学が口を挟むという事態が見受けられるようになった。時代の要請ともいえるこうした大学の態度の変化は,「自由の学風」を自らの手で築いてきたという自負のある京大生にとっては目に余るものだろう。忘れてはならないのは,「自由の学風」は大学当局ではなく学生によって醸成されなければならないものであるということだ。

 京大を志望する受験生がイメージする「自由の学風」とはどんなものだろうか。吉田寮熊野寮といった自治寮であるがゆえに萌芽する学生文化は受験生以外にも取り沙汰されるところだろう。しかし「自由の学風」はしばしば世俗から離れた異端の文化として統制すべきという声があることはネット上の賛否をみても明らかである。国公立大学の学生として多額の税金を投入されている身分にあるまじき行為だという考えは理解できなくもない。しかしだからといって納税者の意図にそぐわない活動は統制されるべきものなのだろうか。警察官に逮捕され懲役送りになる犯罪者だって納税する一市民である。社会の安寧を維持する機構として納税者の人権が一部制限されることを許すのは,それによって市民社会の生活に平穏をもたらすからではないだろうか。もし大学が市民社会に貢献する組織として機能するならば,その根底には真理を探究する場としてあらゆる言説に対抗し,常識の枠にとらわれない営みが必要なはずである。京大の「自由の学風」は学生や研究者にとって大学が持つ意義を最大限に発揮する場として機能してきたのではないだろうか。今の京大にとってタテカンの存在は曲がりなりにも「自由の学風」を形成し,大学の意義を社会に還元する最末端の営みとしてみることはできないのだろうか。